第15回ホノルル・フェスティバル 【 特別インタビュー 】

第15回ホノルル・フェスティバル 【 特別インタビュー 】

第15回ホノルル・フェスティバルで、松坂慶子さんと共に『天守物語』と『大田楽』にご出演された狂言師の野村万蔵さん。今回の公演のこと、そして日本の文化・芸能としての狂言を守り伝えていく役目の中心にいながら、日頃から狂言という枠にとらわれることなく、いろいろな試みを行っていることについて、お話をおうかがいしました。

— ホノルル・フェスティバルでのステージにご出演されていかがでしたか?

普通は演劇でも何でも、練って練って一つの劇場を借りてという感じですよね。でも、今回は、あれだけ広い会場にいろんなブースがあって、わーっと皆が行き交っている慌しい中、ステージも他の出演グループがパッと入れ代わり立ち代りやっていくわけじゃないですか。なかなか無い経験で、ある意味、普段にない緊張感を感じましたね。段取りとか進行とか。「次、我々の番!準備して!」って。それに、前のステージはどんなに盛り上がっているんだろうと気になったり、太鼓をダッダッッダーって叩いてたりすると、「よーし、じゃあ、俺達もやってやろう!」とかね。そらから、『天守物語』は一応演劇ですから、あんな賑やかなお祭りみたいなところでやって、ちゃんと受け入れらるのかなとか、そういう不安とさっき言ったような「やってやろう!」みたいなやる気とかを感じる・・・僕らの言葉、日本語でいうと「立合い勝負」、まあ決闘みたいなパッと上がって勝負!みたいなね。そういう緊張感がありましたね。

それと、お客さんがあれだけ満員で、日本語が分からない方も多くいらしゃったと思うんですが、立つこともなく、受け入れてくれたなあ、よかったなあとすごく満足感を感じましたね。それは『天守物語』もそうですし、『大田楽』のほうも、両方に通じて感じたことです。気持ちが良かった!この一言につきますね。

— ハワイでの公演ということで、他の公演と違う何かを特別に用意されたということはありましたか?

manzo01特別に用意したといえば・・・、『天守物語』の冒頭で「アロハ!」って言おうかな、とかね(笑)。
『大田楽』に「フムフムヌクヌク(注:ハワイ州の魚に選ばれたこともあるハワイ固有種の魚 フムフムヌクヌクアプアア)」とかを掛け声に入れたり、衣装もレイをかけてみたりとか・・・。ホノルル・フェスティバルに参加するってことは、当然、文化交流ということだと思いますからね。
僕らも海外に行った時に、地元の文化とか言葉というものを自分達の持っている文化の中に取り入れて、大げさですけど、それを象徴的にすることが当然のようにも最近は感じてますね。もちろん、真面目な芝居とかにはそういう事は出来ませんけども、狂言であればコメディの要素がとても強いのでね。

— コメディと言えば、コメディアンの方ともなさってますよね?

そう、ウッチャンナンチャンのナンチャン(南原清隆さん)と最近共演している「現代狂言」という作品です。すごく勉強になりますよ。
何年前になるか、日本のあるテレビ番組で、ナンチャン達が狂言に挑戦するというのがあって、その時に私の亡くなった兄(野村万之丞さん)がお教えしたんですよ。番組はそこで終わったんですが、後々、兄とナンチャンが「狂言にコント色を入れたり、現代的な新しいジャンルを作ったら面白いね。やりたいね。」っていう話をしていたところで、兄が亡くなってしまったんですね。でも、南原さんがその思いを燃やし続けていて、やっぱりできないかということで引き継いでやり始めたんですよ。もう4年目になるんですけどね。新しいジャンルのとっても面白いものですよ。見ていただけるといいんですけど。
ナンチャンも世界に進出したいと本気で言ってますから、きっとハワイにも何年か後には、来ると思いますよ(笑) 。面白いですよ。抱腹絶倒!腹抱えて笑いますよ。テレビの笑いとは違うまた面白さがありますから。

— 「昔からのもの」と「新しいもの」をどのように一つにしていくんでしょうか?

狂言というのは、日常生活に巻き起こるような人間の失敗とか、つまり短所、裏を返せば長所でもあるんですが、そういうものを「笑い」を通して伝える日本で一番古い喜劇なんです。でも、慣れない方達にはやはり言葉遣いが古いとか、テンポが今のお笑いなんかよりも随分遅かったりとかしますよね。

「現代狂言」で我々がやっていることは、一番最初にしっかり「狂言」を見せることです。それをほぼ同じ筋立てで、現代の人に置き換えたらどういう風になるのかっていうものをタレントさん達がやる。それで狂言の所作(立ち振る舞い)を取り入れながら、コントを取り入れたりします。この前なんか、スリッパ持ってきてパン!とやったりね(笑) 。

manzo02今の笑いの中には、人を馬鹿にしたりとか、下品なことを言ったりとか、ただ奇抜な格好をしてキャラクター勝負みたいな所があったりするでしょう。そういうものではなくて、日本人の変わらない笑いの要素、普遍的なもの、表現の仕方が古いものと新しいもの、これらを人の頭の想像力の中で、どんどんどんどんイメージを展開してもらうという狂言の世界のやり方は崩さないで、笑いの王道の新しいものと古いものを融合していくわけです。ナンチャンですから、そこにダンスとか世界の音楽とか色々なエンターテイメント性を盛り込んでやってます。

「狂言」という古典芸能は、無のところから人間の力でどんどん見る側に想像させていくという、そのやり方の度量の広さ、寄せ鍋でもやみ鍋でも何でもいいんですが、鍋に何を入れても入れても、「これ、何が入っているんだろう?いけるね、いけるね。」と広がっていく、そういうものですから、どんどん、どんどん進化していくと思いますね。

— 狂言の手法や所作を提供されていると思っていたんですが・・・。

場や技術とか、衣装のセンスとかを提供しているけども、そこから現代風のものを排除しちゃうと、ただ現代のお笑いの人達が古典に挑戦してるってだけになってしまうでしょう。やっている間にパッとボケたりとか、ほぼ今のお笑いにもなって・・・もう行ったり来たりが面白い。「狂言と今のコントが結婚したら」というサブタイトルがあるんですけど、喧嘩もすれば仲良くなったり、そういう面白い夫婦みたいな感じで、「合わないよ、あの夫婦。」と思っていたら、「へえー、なんだ、案外といけるじゃん。」というように、笑いながら思っていただけるといいなあというやり方なんですよ。

— 和泉流狂言は300年続いている伝統芸能ですが、その中で変えていいものと変えてはいけないものというのは何なのですか?

manzo03変えていいものと悪いものの線引き・・・それは難しい問題ですけども、その時の長(おさ)、責任者がどこで判断するかなんですよ。一番簡単に言えば、変えてはいけないものは、「この続いてきた芸能は何を伝えたいのか?」っていう心、これをやることでお客様に何を感じて欲しいのかということです。それが変わってしまったらまずいですよね。
僕らも、台本をいじったり、動きを変えてみたりします。じゃあ、洋服でいいのか?う~ん、難しいですよね。実験ならいいかもしれないけれど。「僕の代から日本の服は着ません。ずっと洋服で狂言をやっていきます。」って、これが意味があるかと言ったら、見る側も「それは・・・」ってなると思います。それは変えてはいけないのかな。じゃあ、ペラペラぺらって早口でいいんですかとか、わかり難いから伝わらない言葉は現代語に変えてしまいましょうとか、う~ん、難しい。時代、時代によって言葉はどんどん変わっていきますよね。それでも守っていくべき言葉もあるし、でも、お客さんに喜んでいただくために、この言葉はちょっと変えてみようというのもあります。だから、先祖の本でも上から和紙を貼って書き直したりとか、貼らないでも朱で線を引いてしまってカットしたりとか、いろんなことを皆しています。

先祖がつないできた心や厳しい芸の修行があったりしますが、僕らの芸能の上では、「めでたい」とか、「前向きに生きていこう」というポジティブな表現にしているわけですよ。
歴史というのは、ポッと生まれたものではなくて、代々つながっているものです。私どもの家は300年ですが、能・狂言では600年ですし、その前にも古典芸能はあって、そのようにどんどんさかのぼっていくと切りがないです。そのつながっているものを手を替え品を替え、人間が生きていく為にどういう事が必要なのかなと思いながらやっているわけです。

— ということは、今は万蔵さんが変えると言えば、変えられるということですね。

野村万蔵家の芸はこうするとか、言ってしまえば変えられますよ。それは死んだ後、代々の人に袋叩きにされるかもしれない・・・ その恐ろしさっていうのもありますけども(笑)。 それは兄も言ってましたよ。その恐ろしさを感じながら、でも何にも変えないでずっと同じことを守ってやっていても、「お前が何も変えないから潰れたじゃないか!」と袋叩きにされるかもしれない。潰れてしまったらおしまいですから。変え過ぎても「馬鹿野郎!何をしていたんだ。そこまでいじりやがって」って。そのさじ加減というものを、自分の家という個人的なことと、家じゃなくて「芸能」という大きい枠で考えていくこと、いろんな車の車輪を持ちながら考えて、どうするかを選択をする立場にあるということなんです。

— 300年続いている中の九世(九代目)当主 野村万蔵ということでも重みやプレッシャーというのがおありなんでしょうね。

manzo05「万蔵」という名前になった時は、一年位は死にそうでしたよ。僕じゃないって周りからも言われました。言葉使いとか、目つきとかも、「お前じゃないよ、何をそんなに肩肘はっているの?」って。
慣れというのは悪い意味にも使われますが、時というのはすごいもので、そういう名前とか立場にだんだんと慣れてくる。先ほどの「何を捨てて何を残すか」っていうことも、即決しないといけないところもあれば、そうではないところもあったりするじゃないですか。そういう判断力というのは、やはり経験ですよ。だからこういう『大田楽』とか松坂さんとの『天守物語』、ナンチャンとの現代狂言をやったりすると、「あれは・・・」と言う人も必ずいらっしゃいますけど、そういう事をやって、自分の本業をかえりみた時に、新たに「これが付け加えられるな」とか、「これは遊びの部分だけれども、ここまでやってはいけないな」とか、いろんな事を考えられる。やはり経験が大事だと改めて思いますね。

— 先日、松坂慶子さんが、万蔵さんと一緒に舞台に立つ時は、普段の仕事とは何か違った何か、安心感のようなものを感じるというようなことをおっしゃていたんですが、それはどういうことからだと・・・。

う~ん、まあ、ガツガツしていないんでしょうね、普通の役者さんに比べたら。もちろん葛藤などはしてますよ。自分の頭の中では、アヒルが水面下ではガーっとやっている、そういう状態とでも言いましょうか。
古典というのは、厳しい稽古をして、動かないとか、すっとしているという時間が当たり前のようにとても長いです。舞台の上に立ったら微動だにしない、これだけでも周りの方にインパクトが当然のごとくあるわけですよね。いつもどっしりしてるわけではなくて、内心不安な時だってありますよ。

違った何かとかは皆さんが感じて下さったことであって、それが何故って聞かれても自分じゃ答えられないですよ。私だって勉強になるなと思ってますよ。やっぱり芸の道で経験を積んでやってきた方とはお互いに与える影響力が大きいんですよ。

— 『大田楽』の話に戻りますが、『大田楽』ついてお話いただけますか?

『大田楽』はですね、もともとは神事なんですよ。儀式で、意味がある。でもそればかり追求していると、見る側の人達が面白くないというのかな、現代でやるからにはエンターテイメント性を盛り込んでいかなければならないわけですよ。
もう何前だったかな、15年か20年前ですけど、最初にほぼプロの役者で神事みたいにして、きちっ、きちっと躍ってきれいに作ったことがあるんですよ。それが、だんだん、だんだんいろんな所でやるようになって、先ほど言ったように、土地のものを取り入れたりとか、市民を巻き込んで盛り上げていったりするようになりました。最初に作った形は綺麗だったんだけれども、それを一回壊して、またどんどん、どんどん入れて、形は少し歪になったりしているかもしれませんが、遊動しながらどんどん増殖していってるって状況なんですよ。
でもまたシンプルにキュッとやろうと思えばできてしまう。理由とか、意味とか、作ったその芯というものがきちっとしていて、それをわかっている者がちゃんといれば、付け足して膨らませたり、取ったりとか、何でも出来るわけですよ。それをまとめているのが僕とは言わないですけど、最初に出てくる『大田楽』の長(おさ)である「田主(たあるじ)」っていう役柄でもあるし、その役に出てなくても、兄(野村万之丞さん)がいなくなってしまって当初から関わっていた私が、ここまではいいだろうとか、或いは、市民参加があったり、プロがいたり、セミプロがいたりした時のピラミッドの頭にいることで上手くいくわけですよ。そのために、「長」っていう役が大事な要素なんですよね。

— この先、5年、10年と、この『大田楽』、『天守物語』がどうなっていくか、また、どのようにしていこうと思っていらっしゃいますか?

manzo04『大田楽』と『天守物語』を別々に考えるか、一緒で考えるか少し難しいのですか、別で考えれば、『大田楽』は、十何年、二十年近くの歴史があって、紆余曲折やっている途中で、一度、原点に戻ることは必要だとは思っています。先ほど言った神事の意味とかをもう一度考え直して、かかわっている人たちに思い直して欲しい。そしてまた、同じように市民参加を増やしたり、芸能を増やしていったり、リニューアルするというんですかね。その時期に『大田楽』は来ているんじゃないかと思っています。
で、『天守物語』については、松坂さんの意志が強いので、コバンザメみたいにピタッと・・ね(笑)。それはまあ冗談ですけども、僕のイメージだと、一度ちゃんとしたお芝居みたいになっていくんじゃないかなと。最初は朗読からなさって、それが朗読芝居になって、どんどんどんどん芝居が大きくなって、で、最後のほうになっていくと、足していったものを取っていって・・・やっぱり朗読だけにしましょうとかね(笑)。 わかりませんけど。これだけ、先頭で走っている方が熱意があるとそこにできるだけ協力をして、ある時は「こっちにしましょうよ」と言うかもしれませんけど、そうやって良い引っ張り合いをしながら、いろんなイメージの『天守物語』が、定まらないであっち行ったりこっち行ったりしているのが面白いんじゃないかな。役者も飽きないですし。

— まだまだこれから、色々な形に変わっていくかもしれないということですね。楽しみにしています。本日はとても興味深いお話をたくさんありがとうございました。

Manzo, playing Taaruji (head of the land)

奏上文を読み上げる「田主」役の万蔵さん

The dances are performed in front of Keiko Matsuzaka and Manzo.

松坂慶子さんと万蔵さんの前で舞が繰り広げられていきます。

Matsuzaka's daughters Monet and Marisa act in Tenshumonogatari as ladies in waiting for the demon.

松坂さんとの『天守物語』での朱の盤坊(しゅのばんぼう)役。侍女役は松坂さんの娘さん 百音(もね)さんと麻莉彩(まりさ)さん

Manzo portrays Touroku in Tenshumonogatari.  His dignified voice can be heard across the performance area.

『天守物語』で桃六(とうろく)役を演じる万蔵さん。凛とした声が会場に響き渡ります。

野村 万蔵(のむら まんぞう)

和泉流狂言師。野村萬の次男。父を師とし、その教えを受ける。2005年に本家の名跡 九世 野村万蔵を襲名。国内での公演にとどまらず海外でも公演を行い、古典以外にも復曲新作の能や狂言、現代劇や映画にも出演している。