2018年は日本人がハワイへの移民を始めてから150周年の記念すべき年になります。今年のホノルルフェスティバルでは、いくつかの記念イベントが行われました。
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-日本とハワイの歴史-


まずは日本人とハワイの歴史を知ることが重要です。初めての日本人移民は、どのような歴史を経て、今日に至っているのでしょうか。年表で流れを確認しておきましょう。

1850年
白人投資家によるサトウキビ農場が設立され、一大産業へと急成長する
1860年
国王カメハメハ四世が日本とハワイ王国の間の友好条約を立案
ジョン万次郎、福沢諭吉らの遺米使節団を乗せた「成臨丸」がホノルルを訪問、
国王が労働要請を請願
1861年
アメリカ本土では内戦「南北戦争」が勃発
1865年
日本で貿易商を営んでいたアメリカ人ユージン・ヴァン・リードがハワイ王国によって
在日ハワイ領事に任命。日本人労働者の招致を交渉
1868年
明治元年5月、日本政府の許可なく約150人の日本人を乗せたサイトオ号が横浜港を出港、
翌月20日にホノルル港に到着
1869年
日本政府からの特使派遣による抗議により移民の40名が即時帰国
1871年
日布修好通商条約締結により移民待遇が改善される
1876年
関税撤廃により、ハワイ王国は世界有数のサトウキビ輸出国となる
1885年
日布移民条約締結により政府公認での移民がはじまる
1894年
政府公認移民の廃止で民間企業による移民がはじまる
1898年
ハワイ王国がアメリカ合衆国に併合、準州となる。厳しい労働契約が無効となり、緩和される
1902年
サトウキビ畑の労働者の70%が日本人移民となる
1908年
日米紳士協定により民間移民会社が消滅。これ以降移民家族と一時帰国者以外の
移民ができなくなる
1920年
日本人労働者の割合は19%に。労働条件改善をもとめストライキ勃発
1924年
移民法の成立によりアジア出身者の移民が全面禁止となる。累積移民数21万人
1941年
真珠湾攻撃、アメリカが第二次世界大戦に参戦。日系人およそ400人が収容所に拘留される
1942年
二世による第100大隊が結成され、訓練ののちヨーロッパ戦線に派兵される
1944年
第442連帯をヨーロッパに派兵
1945年
ドイツ軍降伏及び太平洋戦争の終結
1952年
日系一世及び他のアジア系移民に米国籍を認める法律の制定
1959年
ハワイ州が準州より50番目の州に昇格
1988年
第二次世界大戦中に抑留された者への補償を認める「1988年市民の自由法」の成立
2016年
真珠湾攻撃75周年、安倍首相真珠湾訪問
2018年
日系移民150年の年

増加するサトウキビ農場に対し、王国政府は王国内で労働力を確保することが困難になり、多くの外国と契約を交わし、労働者として移民受け入れました。そして1924年の移民法の施行までにおよそ22万人の日本人移民がハワイに渡りました。多くの日本人移民は契約満了後もハワイに定住し、地元社会に適応して、認められていくこととなります。そして彼ら日本人移民とその子、孫たちの努力により日系アメリカ人としてハワイ社会の基礎を作り上げていくことになります。

地元の人は、最初の移民である彼らのことを1868年、つまり明治元年という事から「GANNEN MONO(ガンネンモノ)」と呼びました。

日本はちょうど、江戸時代から明治維新に変わるタイミングにあり、最初の移民は江戸幕府との間で締結していた契約でしたが、明治維新により突然政府が入れ替わってしまい、契約交渉がすべて無効となってしまいました。しかしすでに渡航の準備を終えていたハワイ領事は、彼らを無許可でホノルルに送り出してしまいます。初めての日本人移民は、日本政府の許可がない不法な移民だったのです。

彼ら「元年者」の苦労は目に余るものがありました。実態は人身売買に類似し、待っていたのは半ば奴隷のような過酷な労働だったのです。しかし彼らは、苦しいながらも耐え忍び、定住し子孫を増やしていきました。日系人の割合の増加はこんな所に起因しているのですね。

第二次世界大戦の勃発により、アメリカ人でありながら日系であるという事で、本来であれば強制収容を余儀なくされる状態でしたが、ハワイの経済にかかわる日系アメリカ人の割合があまりにも多いために、収容施設の問題もあり、強制収容はわずかな人のみが対象となりました。ハワイにとって日系人はハワイで既に欠かすことの出来ない存在となっていたのです。現在があるのは、間違いなく「元年者」から始まった日系移民の方々の努力の賜物なのです。


-永職会プレゼンツ 語り舞台 日本人ハワイ移民&日本神話への誘い-


ホノルル・フェスティバルでは、日系移民150年に際し、彼ら「元年者」への敬意を表し、日系移民の歴史の原点を今一度思い起こしてもらうための「語り舞台」の公演が開催されました。
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語り舞台とは日本の神社を舞台に「古事記」や「日本書紀」を語るプロジェクトです。平成15年に伊勢神宮、出雲大社からスタートしたこのプロジェクトは全国神職有志の会である永職会が中心となって「日本神話語りプロジェクト」として発足しました。

今回、ハワイで2度目の公演がこの移民150年で実現することになりました。英語での語りは、現地の人達にどのように伝わるのでしょうか。

司会は芸歴44年を誇るコメディアンのフランク・デリマさん、日本の童謡を歌ったりユーモアあふれる楽しい進行役を務めていただきました。日本神話語り手は、ブロードウェイでの舞台経験もある女優のキャシー・フォイさん。日系ハワイ移民語り手はヤス石田さん。効果音のキーボード担当はジョシュア・ケイさんです。
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今回の公演演目は「日系移民 虹のかけ橋」と「ヤマタノオロチ」。脚本は木下草介氏、翻訳はスーパー歌舞伎の海外公演の翻訳も担当された和泉摩地子さん。

最初の語りは、日本人移民物語「虹の架け橋」。語っていただいたのは1868年に初めてハワイに移民として訪れた150人の「元年者」の物語です。
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彼らが当時どのような思いで、ここハワイで生活をしていたのか、ヤス石田氏が披露してくれました。

日本人移民物語「虹の架け橋」

1885年安村政吉は政府公認の移民945人の一人としてハワイに初めて訪れました。彼は横浜出身の20歳の若者。成功を自分の胸に誓い、この地にやってきました。15歳で日本橋へ働きに出た政吉は、ある日突然首を言い渡されます。そして、ハワイ移民の募集を知るのです。

政吉はハワイの美しい空に架かる虹を見て思わず「大きな虹だ!きっとこれはハワイが私たちを歓迎してくれいる証なんだ!」と叫びます。政吉は希望に胸を膨らませます。

政吉はサトウキビ畑の肉体労働者としてやってきました。しかし、そこには期待を裏切る劣悪な生活が待っていたのです。そんな状況に不満は募るばかりです。「ここは何なんだ!」と、思わず叫んでしまいました。政吉は、我慢しながら懸命に働きます。「絶対にあきらめない、俺は絶対に成功してみせる!」政吉は叫びます・・・。

目を閉じると、主人公政吉を通して、当時の風景が目の奥に浮かび上がってくるようでした。辛くても苦しくても、まじめな政吉は成功を夢見て一生懸命頑張ります。鈴との結婚、息子の出産、そして最愛の息子の病死など幾多の喜び・絶望を自信で乗り越えていきます。

移民が始まった当初は、サトウキビ畑での過酷な重労働が待ちうけていました。その後ハワイ革命が起こり、アメリカによる併合によって労働状況は幾分和らぎ、二世・三世がハワイでの生活に根付いていきました。

しかし、そんな矢先、今度は突然の太平洋戦争の勃発です。母国である日本からの攻撃、日系人への弾圧、強制収容など、大変重く、苦しく過酷極まり状態が続きました。しかしそのような状況下に於いて、日系移民二世で構成された百大隊、442連隊、MIS情報部隊の目覚ましい活躍で数多くの戦果と沢山の勲章がもたらされました。これはアメリカ軍史上最大の功績として、今もなお称えられることになります。
祖国日本を離れ、ハワイで移民として生きる覚悟をした「元年者」、その二世・三世は日本人を親に持ちますが、列記としたアメリカ人であることをここで証明したのです。

母国とは何なのか、人種とは何なのか、生まれ育った土地とは何なのか、また平和とは何か、ハワイの日系移民の歴史を紐解くとそのような事を考えさせられるのです。

ヤス石田氏は最後にこう締めくくります。
「移民たちの血のにじむような努力により今があります。彼らが作って来たものはまさに今という日に至る『虹の架け橋』なのです。」

そして日本神話の演目「ヤマタノオロチ」は、女優のキャシー・フォイさんが披露しました。
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日本神話「ヤマタノオロチ」

まずはハワイの神様のお話しから。戦いの神クー、火の神ペレ、農耕と平和の神ロノ、生殖の神カーノなどハワイの神話にも日本と同じ様に多数の神々が登場します。

同じく日本にも多くの神話が言い伝えられています。その伝承のほとんどは、「古事記」「日本書紀」そして「風土記」によるものになります。日本にはその神様をおまつりする神社が古くから存在しています。

ハワイにも出雲大社という神社がありますが、日本の出雲大社は大国主大神様をおまつりする神社です。その大国主の祖先であるスサノヲが高天原から下界に追放された時に降り立った場所が出雲の国であり、その時に起こった出来事が、今回の語り「八岐大蛇 ヤマタノオロチ」です。

物語は、出雲の国でスサノヲがとある老夫婦とその娘に出会う。8つの頭と尾を持つ大蛇「ヤマタノオロチ」に娘が食べられると嘆く夫婦に娘との結婚を条件に大蛇退治を請け負う。というお話です。

イザナギに会いたいと泣き叫ぶシーンや、下界に追放された時の臨場感溢れる語りに会場も思わず釘付けです。

スサノヲがクシナダ姫を櫛に変えて自らの頭にさすシーンでは、キャシーさん自前のアクセサリーを使用していました。まるでラジオドラマを聞いているようです。創造で一つ一つシーンが浮かび上がって来ます。

物語の最後に詠った歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」は、日本で最初に詠まれた和歌として有名です。

この二つの語りは、ハワイに住む日本人として、日本から未開の地へ渡った勇気あるハワイ日系移民の人々の生き様を知る事の重要性。そして愛情に満ちあふれた日本の神話を伝承する事が、その神話を起源に持つ日本人でありつづけることの「誇り」だという重要性を教えてくれています。

今回、来場されていた方はご年配の方が多かったのですが、次回は是非、現地の子供達にこの「語り」を聞かせる事が出来ればいいと感じました。子供達はきっとこの「語り」から何かを感じとってくれるでしょう。


-さくらこまち和楽団 ~ハワイ公演2018~ 「日本の心をうたう」-


さくらこまち和楽団は女性のみで構成され、日本の伝統的な楽器である筝、津軽三味線、篠笛、和太鼓などを中心に、民謡なども加え、日本女性による魅力あふれる芸術・エンターティメントを創造する和楽団です。毎年のように海外公演を行い世界中で活躍しています。
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~琴~

琴の原型は奈良時代に中国大陸より伝来しました。江戸時代に入ると楽器は工夫され、たくさんの曲も創られるようになり、人気は広まっていきます。琴の糸は13本あり、柱(じ)と呼ばれる支柱を動かして音程を調節します。
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~津軽三味線~

津軽地方(青森県西部)で発展。弦を叩きつけるように弾く打楽器的な演奏方法と、テンポが速く音数が多い楽曲に特徴があります。
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~和太鼓~

お祭りや歌舞伎、神社仏閣における儀式に用いられます。木でできた胴に皮を張り、それを振動させて音を出します。
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~篠笛~

竹に穴を開けたシンプルな日本の横笛の総称です。昔から民謡、長唄など様々な音楽に使われてきました。日本人にとって一番身近なメロディー楽器です。
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最初の曲は、全ての楽器と唄を交えた「さくらさくら」から始まり、、、
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新年を思わせる「春の海」に次き、力強い琴の音色が特徴的な「鳥のように」
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太鼓と篠笛で奏でるお祭りを連想させる「寿獅子舞」、津軽三味線での力強い「津軽じょんがら節」と演奏が続きました。
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そして、来場者の方と一緒に「ほーいほい」とかけ声を交えて青森に伝わる盆踊り唄を披露され、太鼓体験も行なわれました。
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会場のかけ声と太鼓を交えて会場全体で多いに盛り上がり、最後の曲は、和テイスト溢れる「上を向いて歩こうースキヤキソングー」でフィナーレです。
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日系移民にとって、歌や音楽は一瞬でも苦しい生活環境を忘れさせてくれる安らぎの一時であったのではないでしょうか。音楽を奏で、唄を口ずさむことで、遠い母国を思い、友を思い、家族を思い、生きる活力を思い起こさせていくれたに違いありません。和楽器が改めて素晴らしい楽器であることを再認識できました。


-「ハワイ日系人の歩み」写真展-


ハワイの日系アメリカ人の歴史と文化を紹介する写真展がハワイ コンベンション センターにて開催されました。
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この写真展は教育プログラムの一環として「海を越えたハーモニー、平和への旅」という同フェスティバルのサブテーマに基づき開催されています。展示ブースには大勢の方が訪れていて、皆さん食い入るようにパネルを一枚一枚眺めていました。
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展示パネルの一枚目には下記のようなメッセージが添えられています。

“この展示は日系移民が最初にハワイに到着した1868年に始まり、日系移民とその子孫、ハワイ日系人の今日までの歩みを見る事ができます。
この歴史展示の目的は、どのように日系移民の文化や価値観が、時を経て受け継がれ、ハワイの多様な文化と混ざりあっていったかを理解頂く事にあります。
日系移民の子孫により作り上げられたこの展示が、ハワイと日本の関係を永遠のものとし、アメリカと日本の間の交流や理解の深化に役立つことを望んでやみません。”

写真展は2017年に日本各地で開催され、日本の方々から非常に多くの反響がありました。説明文は日本語と英語両方で記載されています。

2018年には、日系移民150周年を記念し、二世ベテランレガシーと在ホノルル日本国総領事館共催で、ホノルルフェスティバルを筆頭にハワイ州の各地でこの写真展が開催されています。

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日系パネル展の企画立案に尽力した二世ベテランレガシーのバーンズ・ヤマシタ氏

展示は1800年代後期の日系一世の到着から現代のハワイにかけて日系人がどのようにして日本文化とハワイの文化を織り交ぜてきたかを物語っています。また、ハワイの著名な日系人とその先祖の出身都道府県についての説明もあります。

この写真展の目的は、皆様にハワイの日系人の歩みについて知っていただき、日本とハワイにおける異文化や習慣への理解を深めることによって、日米の友好関係を促進していくことです。

10日と11日の両日は、会場にてスペシャルガイドツアーが日本語と英語で、時間を分けて開催されました。ガイドは、ハワイ在住27年で日本とハワイの文化交流活動に多く従事されている浅沼正和氏。移民に関するこぼれ話をたくさん聞くことができました。

多くの日本とハワイの文化交流活動に従事している浅沼正和氏

多くの日本とハワイの文化交流活動に従事している浅沼正和氏

その中からいくつかご紹介しましょう。

  • 最初の日系移民の人達は横浜に住んでいて、どちらかと言うと農業従事に向かない人であった。
  • 最初の船は一ヶ月かけてホノルルに到着した。現在の所要日数は7日間。
  • 政府公認移民で一番多く移民して来た県のベスト4は、広島県、山口県、熊本県、福岡県。広島と山口だけで全体の74%を締めていた。
  • なぜ広島と山口が多いかというと、一つは、当時の外務大臣井上馨が長州の出身で地元に働きかけた事。もう一つは地租改正によって納税が出来ない人が増えたため、ハワイへの出稼ぎを勧められた事。
  • 逆に移民が極端に少なかった県は、奈良と京都。
  • 一人で移民してきた独身男性の結婚相手は「写真花嫁」と呼ばれる女性たちで、まだ見ぬ人と結婚するためにやって来た日本人女性であった。
  • カパフルのキャンベル通りに、当時の日本人学校の校舎が今も残っている。
  • 真珠湾攻撃時のハワイの日系人の割合はハワイ全体の約40%。およそ16万人が日系人であった。
  • 第100大隊はもともと州兵だった日系人で、第442連隊はすべて志願兵。1500人の募集に対して6倍の日系人が集まる。
  • 亡くなったり負傷した兵士に送られた勲章「パープルハート」の数はおよそ9千数百個。米軍兵の中で最も多くもらった部隊が第100大隊。

私がこのパネル展でもっとも印象に残っている写真です。

無事に帰還した息子と抱擁する父親の表情が何とも言えず時代のわびしさを感じます。

無事に帰還した息子と抱擁する父親の表情が何とも言えず時代のわびしさを感じます。

 
アメリカ人として戦争に出兵した二世達は日本人としての価値観を胸に戦闘に向かいました。

アメリカ人として戦争に出兵した二世達は日本人としての価値観を胸に戦闘に向かいました。

「恩」、「恥」、「頑張り」、「我慢」、「犠牲」、「義理」、「名誉」、「責任」、「奉公」、「感謝」、「誇り」、「忠義」、まさしく常に日本人の意識に存在する言葉です。日本人のもつ独特の美徳とでもいうのでしょうか。

二世の兵士たちは一世から教え込まれたこのような価値観で戦闘に従事していたのです。年月を経て、日本人としての価値観はハワイの他の民族の価値観と混ざりあい、まさにハイブリッドなハワイ日系人の文化を形成する事になります。

苦しい移民生活、そして戦争、このような激動の歴史の中で生きて来た一世、二世の人達は、「おかげさまで」という言葉で感謝を表しています。この言葉には、「私はあなたのおかげで今の私でいられるのです」という意味が込められています。

移民としてやって来た一世、この地で生まれた二世たちは、日本や日本以外の多くの人々、グループ、リーダーに導かれてきました。彼らは「私達はハワイの一部でいられることに感謝しています。おかげさまで、私はあなたのおかげで今の私でいられるのです。」と、締めくくっています。

そして今、私達がこうしてハワイで不自由なく生活できるのは、間違いなく一世二世の「おかげ」なのです。

今回の移民150年記念行事の開催で、多くの人が移民の歴史を理解出来たのではないでしょうか。今後もハワイにおいて、日系人は欠く事の出来ない存在であり続けなければなりません。

愛と信頼をミッションに掲げるホノルル フェスティバルも、平和の橋渡し役として、全世界に向けてこれらの日本の美徳、価値観を織り交ぜながら貢献できればと願っています。