3  ジョセフ・コヒ


人生を変えた遭難
それゆえに彦太郎と他の乗組員はサンフランシスコへと向かって旅を続けました、またいつの日か再び日本を見ることが出来るのかも知らぬまま。 彦太郎にとって、どんなに不思議だったことでしょう、自分の祖国が他の世界から二世紀にもわたり孤立している中、突然、異文化の人々に曝け出されたのですから。
仏教の教えに従って肉を食さない彦太郎と他の乗組員は、オークランド号の船上で猪が屠殺されるのを見て恐怖に震え上がります。アメリカ人は人食い人種で自分たちを太らせてから屠殺するつもりではないかと心配になります。しかし彦太郎は勇敢にも環境に慣れていき、目も心も全開にして、目に映る不思議で新しいことを理解しようと努めました。

国際的人生の始まり

45日間以上のサンフランシスコまでの航海を経て、彦太郎はすでに国際的な人間になりつつありました。航海技術や乗組員に興味を持ち、外国語を習うことは日本の法律に反することでありながらも、英会話を勉強することに熱心でした。この冒険心こそがヒコを全生涯を支え、大統領と握手を交わすなど国際政治に影響を及ぼすところまで導いていったのです。 ジョセフ・ヒコの物語をもっとお知りになりたければ、ホノルル・フェスティバルにいらしてください!







1858年、ホノルルにて
ジョセフ・ヒコ、1850年、アメリカの商船によって救助された日本人の少年、それは特筆すべきで出来事ではありましたが、江戸時代に漂流という運命の糸でアメリカ、及びハワイ王国にやって来た日本人は彼一人ではありません。他の有名な漂流者にはジョン万次郎、次郎吉、3人吉と呼ばれる音吉、岩吉、九吉、皆、アメリカにおいて長い月日を過ごし、やがて日本へ帰ろうとしました。(三人吉の場合は、それが叶いませんでした。)

船はこれらの物語の中で重要な役目を果たしました、救助というだけでなく、国際的コミュニケーションという意味でも。郵便はニュースを伝達する唯一の手段であり、1879年以前のハイスピードコミュニケーションである電報も陸地における使用に限られていました。ハワイ王国は、太平洋の真ん中というロケーションから、1820年代にはアメリカとアジアを結ぶ交易において重要なニュース発信地となっていました。1840年代から1850年代は、捕鯨産業の最盛期でもあり、ホノルルとラハイナは世界の中でも一番頻繁にアメリカ商船が立ち寄る港になっていました。