7  ジョセフ・コヒ

国家を越えた人類愛
ジョセフ・ヒコの生涯の物語には、他国からの見知らぬ人間に対し、損得抜きで手を差し伸べた多くの人々の親切と寛大さが浮き彫りになっています。このことは人間性があれば文化や政治の違いを乗り越えることが出来るという証明です。

ジョセフ・ヒコと栄力丸の乗組員は1850年の遭難に、オークランド号のウィリアム・ジェニングス船長の助けがなければ生き残ることは出来なかったでしょう。日本の言葉も文化も全く知らないアメリカ商船の船長が、ヒコとその仲間17人に食事を与え、寝る場所を与え、45日間かけてサンフランシスコまで連れて行ったことを考えると、それはちっぽけな親切などではありませんでした。

サンフランシスコでは、日本開国を迫る目的で遠征していたペリー提督が帰国間近のことで、日本人はアメリカ政府の注目の的でした。彼らは密輸監視艇ポーク号に約1年滞在させられ、その間に専任衛兵長トーマス・トロイは日本と日本人に大変興味を持ちます。そして自ら日本語を学びヒコの親しい友人になります。1852年、ペリー提督の遠征が香港で遅延している間に、トロイはヒコと、トラとカメという他の2人の日本人をサンフランシスコまで自費で送り届け、日本が開国するまで、そこで英語を勉強するようにと薦めました。





ヒコがサンフランシスコの税関長でありまた秀でたビジネスマンであるビバリーCサンダースと出会ったのもトーマス・トロイを通じてのことでした。トロイとヒコが税関に連れてこられた一人の漂流船員に通訳をしているのを見て、サンダースは非常に感心し、15歳のヒコに自分と同居し教育を受けないかと持ちかけ、ヒコはそれを有り難く受けることにしました。それから日が立つに連れ、ヒコはサンダースを父親のように慕うようになります。1853年、サンダースは税関から引退し、ヒコを伴ってバルティモアに移住します。サンダースの社会的パワーの恩恵を大いに被り、ヒコはホワイト・ハウスで当時の大統領フランクリン・ピアースに謁見するという快挙を成し遂げました。その後も大統領ジェイムス・ブキャナン、アブラハム・リンカーンなどとも握手を交わす機会に恵まれ、どちらも日本人として始めてという快挙でした。ヒコはビバリー・サンダースの強い勧めにより、1854年にカソリックとして洗礼を受け「ジョセフ」という名前を貰います。

鎖国中の日本(横浜):ペリー一行の来航