ホノルル フェスティバルでの打ち上げは、今年で10回目となる長岡花火。今年も「世界平和」のメッセージを込めて、ワイキキの夜空に美しい大輪の花が打ち上げられます。なぜワイキキで長岡花火が打ち上げられるようになったのか、その背景にはハワイと長岡の興味深い歴史の因果があることを知っていましたか?

 

長岡花火の歴史

明治時代から戦争の影響で中止となる1938年までの59年間 もの間、長岡では花火大会が催され、人々に親しまれていました。そんな長岡の街が終戦間近の1945年8月1日午後10時30分、突然の空襲に見舞われます。1,486名の尊い命が失われ、長岡の街はあたり一面焼け野原となりました。終戦から1年(1946年)、長岡市は慰霊と市の発展を願い、長岡空襲が起きた8月1日にのちの長岡まつりとなる戦災復興祭を開催します。その1年後(1947年)には市民を勇気付けるために長岡花火が復活し、以降慰霊と復興と平和を願う毎年の恒例行事となっていったのです。

 

なぜ、長岡花火がハワイで打ち上げられるのか?

きっかけは2007年8月 ホノルルで開催された日米市長交流会議。当時の長岡市長(森民夫氏)がホノルル市長(ムーフィー・ハンネマン氏)との懇談で、太平洋戦争におけるホノルルと長岡の関係性を説明しました。
真珠湾攻撃を指揮した山本五十六は、長岡市の出身で幾度かアメリカに留学・駐在の経験がありました。そこで目の当たりにした圧倒的な物量や国力の差に、アメリカと戦争を行うことが無謀であることを認識し日米開戦を回避する道を探っていました。それでも1939年に海軍連合艦隊司令長官となると、この戦争をなるべく早く終わらせるために講和に持ち込む策として真珠湾攻撃を計画し、自ら指揮をとったのです。この作戦によりアメリカでは2,390名の尊い命が失われ、奇襲となったことも相まって、アメリカ世論を対日開戦へと推し進める結果となりました。山本の思惑通りにはいかず太平洋戦争は長期化し、総力戦となった日本。終戦直前の長岡は先に述べた空襲に見舞われました。日本海軍による突然の攻撃を受けた真珠湾のあるホノルル市、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六の故郷で戦争に巻き込まれた長岡市、かつては敵同士だったこの両市が結びつき交流していくことで、日米の友好関係の深化・平和への貢献を目指し2012年に姉妹都市締結がなされました。

この年からホノルル フェスティバルの最終日に長岡花火が打ち上げられるようになり、さまざまな交流の中で迎えた2015年。太平洋戦争終結70周年追悼式典にて、パールハーバーの空に慰霊と平和の願いを込めた白一色の花火3発が打ち上げられ、約20分間で合計2,000発の長岡花火が夜空を彩りました。

以降も毎年、長岡市の多大なる協力によりワイキキで長岡花火が打ち上げられています。アメリカではお祝お祝いの意味合いが強い花火ですが、ホノルル フェスティバルで打ち上げられる長岡花火には平和に向けた強い意志が込められているのです。

 


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